「そこで何をやっている!」エミルに気づくなり、その者はドカドカと部屋までやってきた。狡猾なタヌキ面に怒りを浮かべて。「ど、ドリーブ様」「お前がなんでそこにいる!会談中ではないのか?」「いえ、中には誰も......」「いないのか?」はい、と頷くエミルを押しのけてドリーブは中に入る。すると彼の視界に飛び込んできたのは、場違いにソファーへ深々と体を預けている侍女だった。「なっ!お前は侍女のくせにそこで何をしている!」ドリーブが声を荒げた。当然だ。特別な来客用の高級椅子に侍女が悠々と身を任せているなど、ありえない。「なんだよ、うっせーな。ドリーブのおっさんか」リザレリスは悪びれることなくドリーブを睨んだ。自分が王女であることを隠すために変装していることも忘れて。「このわたしに向かって侍女ごときが何だその口の効き方は!......ん?」怒鳴りながら侍女へ近づいていき、ドリーブは気づいた。「そのお声とお顔......お、王女殿下!」「そうですけどなにか?」リザレリスはムスっとして訊き返す。相変わらず太々しい王女相手に物を言うのは気が引けたのだろう。「た、大変失礼しました」ドリーブはお辞儀をしてから、即座にきびすを返してエミルに歩み寄っていく。「お、おい。なんで王女殿下がここにいる。床に伏せていることにしてやり過ごすんじゃなかったのか?」「はい。しかし、王女殿下が......」「だ、だからと言って、王子たちと出くわしてしまったらどうするんだ!」ドリーブは必死だった。それはそうだろう。王女の政略結婚を強引にブチ上げたのは彼だ。ただ、あれはあくまで城内と国内世論を味方につけるための政治戦略。〔ウィーンクルム〕との本格的な交渉は、時宜を見極めてから改めて行う算段だった。だから〔ブラッドヘルム〕へ、すでに王子二人がお忍びで来ていたことは完全に想定外だった。運が悪かったとも言えるが、把握できていなかったことは痛恨のミスだった。もちろんドリーブ個人の責任というわけではない。だが、もし問題が起こった場合、ドリーブは政治的責任を免れることはできないだろう。「まだ王子たちは帰ってはいないはずだ!今のうちに王女殿下をお部屋へお連れしろ!そもそもお前はこのような事態にならないためにディリアス公から命を受けているのだろう!?」ドリーブは眼を血走らせ、遅れて入室してき
「では、私たちも参りましょう」エミルがそう言って、ドリーブを先頭に三人が部屋を出ようとした時だった。「おっと、これはドリーブ侯」ちょうど廊下から応接室へ入って来ようとした者とかち合った。思わずドリーブはびくっとしたが、王子ではなかった。執事風の年配男性だ。「な、なんだ。グレグソン卿、貴兄か」「失礼しました。部屋には誰もいらっしゃらないと思っておりましたので」グレグソンという名の年配男性は、ドリーブに会釈してから、後ろのふたりへ視線をやる。エミルはグレグソンの顔を見るなり頭の中の記憶をたどる。会ったことがあるような気がしたからだ。「あっ」エミルは思い出した。グレグソンは、雑貨屋にあの兄弟を迎えに来た男だ。「どうした?」リザレリスがのん気にエミルへ声をかける。「知り合いなのか?」「リザさま。こちらの方は...」とエミルが伝えようとしたが、一歩遅かった。「ったく、兄貴のヤツ。わざわざ部屋まで行って待たされてまで王女様の顔見てどうすんだっての。さすがに付き合いきれねえ」
ドリーブは疑問を浮かべ、エミルの耳元へ口を寄せる。「ど、どういうことなんだ?」「これにはちょっとした経緯がありまして......とにかく、王女殿下だということはバレていないようです」エミルの返答に、ドリーブは希望を取り戻し、顔色も取り戻した。「そ、そうか。レイナード王子は、ただの侍女だと思っているということだな」「はい。それはそれでまた別の問題がありますが」「確かに......」 一国の王子が他国の侍女に指を突きつけられているなど、ありえないことだ。ドリーブはひやひやしながら王子と侍女を見守る。「ったく、ここじゃ侍女の教育もままなっていねーのか?」「そんなことより、指輪を渡せよ!」「なーんでこの俺がお前に渡さなきゃならねーんだ。買ったのは俺だ」「割り込んだのおまえだ!」「メンドクセー女だな」「あんだ
「驚かせてしまったようだね」フェリックス王子は、そのままゆっくりと階段を降りてくると、リザレリスを丁重におろした。「ケガはないかい?」「あ、ありがと」さすがのお転婆プリンセスも、しおらしく素直に感謝する。「これはフェリックス王子に一本取られたな。エミル」遅れてディリアスが彼らのもとへ歩いてきた。はたとしたエミルは、即座にフェリックスへ向けて跪く。「た、大変申し訳ございませんでした」「いやいや、悪いのは僕だから。君の動きがあまりに素晴らしかったからね」「い、いえ」頭を垂れたままのエミル。「フェリックス王子は有数の魔導師でもあるんだ」ディリアスが言った。それからディリアスは、侍女姿のリザレリスに視線を移すと、どうしたもんかと考える。フェリックス王子は、彼女が王女だと気づいているのだろうか?気づいていないのなら、このままやり過ごすこともできるが......。そこへディリアスの方針を固める出来事が起
【8】城を後にした王子たちは、早々に帰国の途についていた。島国の〔ブラッドヘルム〕の港から、〔ウィーンクルム〕の港までは、船でニ時間あまりを要する。すでに夜だったが〔ウィーンクルム〕が誇る魔導式船舶であれば何も問題はない。だからフェリックスの意見で少しでも帰国を早めたのだった。誰もウィーンクルムとブラッドヘルムを行き来する商船に、王子二人が乗っているとは思いもしないだろう。入国も出国も、いずれもフェリックスの指示で、部下のグレグソンが手配した。第一王子にとって、お忍びでブラッドヘルムを行き来することは容易かったのである。「つーかよ」王子用に用意された客室の中、レイナードは正面に座るフェリックスへ切り出した。「マジで兄貴は何がしたいんだ?」弟の顔には当惑の色が浮かんでいた。兄はふっと頬を緩めて、穏やかに微笑む。「ディリアス様とお話したことがすべてだよ?」「どうせ俺に説明してもわからねーってことか」ふんっと弟は腕を組んで顔を背けた。「物事にはタイミングというものがあるからね」とフェリックス。
【9】王子ふたりが来訪してからしばらくの間に、リザレリスを取り巻く状況は変化していた。まず、ドリーブの策略によって危ぶまれたディリアスの地位は、以前にも増して安泰した。これはリザレリスにとっても好ましい状況変化といえる。「この度は、誠にありがとうございました......」ディリアスに深々とお辞儀をするドリーブのタヌキ面は、悔しさに満ちたものだった。結果として、ディリアスがドリーブの失策を挽回した形となったからだ。ディリアスがフェリックス王子と王女留学の話をまとめたことにより、ドリーブも救われた格好となったのである。もちろんドリーブ自身リスクは重々承知していた。失敗に終わったこと自体は素直に受け入れている。要するに、政治生命を救われたとはいえ、ディリアスに借りを作ってしまったことが不本意でならないのだ。「し、失礼いたしました......」奥歯を噛み締めてドリーブが部屋から辞去していくと、ディリアスは吐息をついた。「ドリーブ卿は、一番の政敵である私に借りを作ってしまって悔しいだろうな」「これで大人しくなってくれればいいですね」何の他意もなく部下が言うと
【10】王子来訪以来、エミルは城外にある人気のない空き地によく足を運ぶようになっていた。リザレリスを取り巻く状況が変化したことと並行して、エミルの心境も変化していた。もっとも彼の場合は、個人的な感情に起因していた。「精が出るな。エミル」そこへディリアスがやってきた。すでに空は夜に染まっていた。「ディリアス様。お忙しいところ、こんな時間にお呼び立ていたしまして申し訳ございません」エミルは動作を止めて、ディリアスに体を向けた。綺麗なエミルの白い顔は火照り、汗が滴り落ちている。「今は私たちだけだ。そんなに堅い言葉使いはしなくていい」「そうですね、先生。それでは早速ぼくと手合わせ願いませんか?」エミルは意気込んで構えるが、肩で息をしていた。ディリアスは吐息をつく。「少し休憩を取りなさい」「嫌です」生贄の美少年は、熱い青少年の眼差しを向けた。「すぐにやらせてください」「そんなに悔しいか」 ディリアスに訊かれ、エミルは拳をギリギリと握りしめる。「ぼくは王女殿下の生け贄であると同時に護衛です。それなのに......」「フェリックス王子に敗北してしまったと」「はい......」「戦いではないのだがな」「ぼくの唯一の取り柄である魔法で出し抜かれてしまったのは事実です。フェリックス王子にとっては取るに足らないことなのかもしれませんが、ぼくにとっては......」「まるで想い人を取られてしまったような顔をしているな」「なっ、いや、ち、違います!」図星だと言わんばかりに慌てふためくエミルを見て、ディリアスは嬉しそうに頬を緩めた。「あの王女殿下が、あの一件でフェリックス王子とお前を比べたと思うか?」「......そうは思いません。これは、ぼく自身の問題なんです」エミルは視線を逸らして、唇を噛んだ。「つまり、このままでは王女殿下に相応わしい男ではないから修行し直している。こういうことだな?」「はい」「リザレリス王女殿下の意中の男性になるためにはもっと頑張らなければ。こういうことだな?」「はい。......えっ??」やっと言葉の意味を理解したエミルは、またもやあたふたと焦り出した。「そんな分をわきまえない大それたこと、ぼくは!」「では、久しぶりに手合わせするか」と唐突に切り替えたディリアスは、エミルに向かい構えて見せた。「ぼ、ぼくをから
【11】留学まで残りあと僅かとなったある日。午前の授業を終え、いったん自室に戻ったリザレリスは、はたとする。「俺...わたしは、なにマジメに王女やってんだー!」ここのところのリザレリスは、日々ルイーズの授業を受けながら、城内と城の近辺だけで過ごしていた。留学したら自由にできると思って、今は大人しくしていたというのもある。ヘタに何かをやらかして留学の話が飛んでしまったら元も子もない。だが、そろそろ限界を来していた。「留学はマジで楽しみだ。なんせ前世でも経験したことないんだから。だから今は遊ぶのも我慢してたけど......もう遊びてー!!」リザレリスは叫んだ。前世の人格から飛び出した、まさしく魂の叫びだった。「てゆーか最近はエミルの奴もあんまり絡んでくれないし。そうだ。エミルを連れ出して、また一緒に外へ遊びに行こう!」思い立ったが吉日。リザレリスはドタドタと部屋を飛び出した。「エミル・グレーアムですか?外に行っておりますが。場所は確か......」臣下のひとりに教えてもらい、リザレリスは廊下を駆け抜け城を出ていく。召使いに命令して呼び出したほうが楽なのに、リザレリスは自分で探しに行った。そうしたかったから。「あっ、エミル!」視界の先にエミルを見つけ、リザレリスは人気のない空き地に向かって翔けた。 「王女殿下?」エミルは驚いて振り向いた。視界の先から、愛しい王女が手を振って走ってきている。「リザさま......」エミルは息を飲んだ。太陽に照らされたイエローダイヤモンドのように煌めく美しい髪をなびかせて、無邪気な少年のように駆けてくる絶世の美少女に。「エミル!」リザレリスはエミルに走り寄っていくと、華奢な体でドーンと体当たりした。エミルはただ驚いた。「り、リザさま」「あ、ヤバい」と途端にリザレリスは膝に手をついて、ゼーゼーと肩で息をする。 心配になったエミルは王女の肩を抱こうとするも、ハッとする。朝からトレーニングをしていた自分の体が汗臭い気がしたから。「ああー、のど乾いちった」おもむろにリザレリスは汗が滲んで桃色に火照った顔を上げて、えへへと笑った。その笑顔から放たれた可憐な矢に、エミルの心臓は射ち抜かれた。「か、かわいい......」「えっ、なんて言った?」「な、なななんでもないです」途端にあたふたとしてエミルは横を向い
無事パレードも終わり、一日が終わろうとする頃、エミルはディリアスの執務室へ呼び出された。二人きりだった。部屋はやけに静かで、ランプの炎の音が聞こえてきそうだった。ディリアスの指示により、小一時間ほどは他の者の入室、および部屋に近づくことさえも禁じたからだ。「先生」執務机を挟んで、エミルはディリアスの向かいに立った。「エミル。何の話かはわかるよな」ディリアスは着座したままエミルの顔を見上げる。神妙な表情だ。「リザさま...リザレリス王女殿下のことですね」エミルも神妙に応じる。ディリアスは目だけで頷くと、口を切った。「今日に至るまで、王女殿下に吸血されたのは二回だけ。間違いないな?」「はい」「吸血のタイミングは不規則で、条件も特に見当たらない。そうだな?」「はい」「では王女殿下のご様子に変化は?」「吸血
【12】 いよいよ王女が留学のために出国する前日。青空の下、〔ブラッドヘルム〕ではパレードが行われた。リザレリスの提言により無駄な支出は控えられていたものの、ディリアスの立っての要望だった。何より国民のためと言われれば、リザレリスも断ることができなかった。豪勢な馬車に鷹揚と運ばれながら、花道を作る国民に向かい上品な笑顔を作り、しとやかに手を振る王女がそこにいた。「う、うまくやれてるかな」リザレリスは笑顔を維持したまま、隣に控えるディリアスに確認する。「大丈夫です」ディリアスは穏やかに頷いた。リザレリスはほっとする。事前にルイーズから相当厳しく指導されていたので、万がいち失態を犯せばどれだけ絞られるかわからない。留学前日の夜に『王女教育授業』の補講を受けるハメになるのはまっぴらだった。「......それにしても、俺...わたしって人気あるんだな」道に押し寄せた国民は、リザレリス王女を一目見ようと熱狂していた。逼迫した経済状況であることも忘れて。国民のためと言ったディリアスの言葉の意味は、こういうことだったのだ。
【11】留学まで残りあと僅かとなったある日。午前の授業を終え、いったん自室に戻ったリザレリスは、はたとする。「俺...わたしは、なにマジメに王女やってんだー!」ここのところのリザレリスは、日々ルイーズの授業を受けながら、城内と城の近辺だけで過ごしていた。留学したら自由にできると思って、今は大人しくしていたというのもある。ヘタに何かをやらかして留学の話が飛んでしまったら元も子もない。だが、そろそろ限界を来していた。「留学はマジで楽しみだ。なんせ前世でも経験したことないんだから。だから今は遊ぶのも我慢してたけど......もう遊びてー!!」リザレリスは叫んだ。前世の人格から飛び出した、まさしく魂の叫びだった。「てゆーか最近はエミルの奴もあんまり絡んでくれないし。そうだ。エミルを連れ出して、また一緒に外へ遊びに行こう!」思い立ったが吉日。リザレリスはドタドタと部屋を飛び出した。「エミル・グレーアムですか?外に行っておりますが。場所は確か......」臣下のひとりに教えてもらい、リザレリスは廊下を駆け抜け城を出ていく。召使いに命令して呼び出したほうが楽なのに、リザレリスは自分で探しに行った。そうしたかったから。「あっ、エミル!」視界の先にエミルを見つけ、リザレリスは人気のない空き地に向かって翔けた。 「王女殿下?」エミルは驚いて振り向いた。視界の先から、愛しい王女が手を振って走ってきている。「リザさま......」エミルは息を飲んだ。太陽に照らされたイエローダイヤモンドのように煌めく美しい髪をなびかせて、無邪気な少年のように駆けてくる絶世の美少女に。「エミル!」リザレリスはエミルに走り寄っていくと、華奢な体でドーンと体当たりした。エミルはただ驚いた。「り、リザさま」「あ、ヤバい」と途端にリザレリスは膝に手をついて、ゼーゼーと肩で息をする。 心配になったエミルは王女の肩を抱こうとするも、ハッとする。朝からトレーニングをしていた自分の体が汗臭い気がしたから。「ああー、のど乾いちった」おもむろにリザレリスは汗が滲んで桃色に火照った顔を上げて、えへへと笑った。その笑顔から放たれた可憐な矢に、エミルの心臓は射ち抜かれた。「か、かわいい......」「えっ、なんて言った?」「な、なななんでもないです」途端にあたふたとしてエミルは横を向い
【10】王子来訪以来、エミルは城外にある人気のない空き地によく足を運ぶようになっていた。リザレリスを取り巻く状況が変化したことと並行して、エミルの心境も変化していた。もっとも彼の場合は、個人的な感情に起因していた。「精が出るな。エミル」そこへディリアスがやってきた。すでに空は夜に染まっていた。「ディリアス様。お忙しいところ、こんな時間にお呼び立ていたしまして申し訳ございません」エミルは動作を止めて、ディリアスに体を向けた。綺麗なエミルの白い顔は火照り、汗が滴り落ちている。「今は私たちだけだ。そんなに堅い言葉使いはしなくていい」「そうですね、先生。それでは早速ぼくと手合わせ願いませんか?」エミルは意気込んで構えるが、肩で息をしていた。ディリアスは吐息をつく。「少し休憩を取りなさい」「嫌です」生贄の美少年は、熱い青少年の眼差しを向けた。「すぐにやらせてください」「そんなに悔しいか」 ディリアスに訊かれ、エミルは拳をギリギリと握りしめる。「ぼくは王女殿下の生け贄であると同時に護衛です。それなのに......」「フェリックス王子に敗北してしまったと」「はい......」「戦いではないのだがな」「ぼくの唯一の取り柄である魔法で出し抜かれてしまったのは事実です。フェリックス王子にとっては取るに足らないことなのかもしれませんが、ぼくにとっては......」「まるで想い人を取られてしまったような顔をしているな」「なっ、いや、ち、違います!」図星だと言わんばかりに慌てふためくエミルを見て、ディリアスは嬉しそうに頬を緩めた。「あの王女殿下が、あの一件でフェリックス王子とお前を比べたと思うか?」「......そうは思いません。これは、ぼく自身の問題なんです」エミルは視線を逸らして、唇を噛んだ。「つまり、このままでは王女殿下に相応わしい男ではないから修行し直している。こういうことだな?」「はい」「リザレリス王女殿下の意中の男性になるためにはもっと頑張らなければ。こういうことだな?」「はい。......えっ??」やっと言葉の意味を理解したエミルは、またもやあたふたと焦り出した。「そんな分をわきまえない大それたこと、ぼくは!」「では、久しぶりに手合わせするか」と唐突に切り替えたディリアスは、エミルに向かい構えて見せた。「ぼ、ぼくをから
【9】王子ふたりが来訪してからしばらくの間に、リザレリスを取り巻く状況は変化していた。まず、ドリーブの策略によって危ぶまれたディリアスの地位は、以前にも増して安泰した。これはリザレリスにとっても好ましい状況変化といえる。「この度は、誠にありがとうございました......」ディリアスに深々とお辞儀をするドリーブのタヌキ面は、悔しさに満ちたものだった。結果として、ディリアスがドリーブの失策を挽回した形となったからだ。ディリアスがフェリックス王子と王女留学の話をまとめたことにより、ドリーブも救われた格好となったのである。もちろんドリーブ自身リスクは重々承知していた。失敗に終わったこと自体は素直に受け入れている。要するに、政治生命を救われたとはいえ、ディリアスに借りを作ってしまったことが不本意でならないのだ。「し、失礼いたしました......」奥歯を噛み締めてドリーブが部屋から辞去していくと、ディリアスは吐息をついた。「ドリーブ卿は、一番の政敵である私に借りを作ってしまって悔しいだろうな」「これで大人しくなってくれればいいですね」何の他意もなく部下が言うと
【8】城を後にした王子たちは、早々に帰国の途についていた。島国の〔ブラッドヘルム〕の港から、〔ウィーンクルム〕の港までは、船でニ時間あまりを要する。すでに夜だったが〔ウィーンクルム〕が誇る魔導式船舶であれば何も問題はない。だからフェリックスの意見で少しでも帰国を早めたのだった。誰もウィーンクルムとブラッドヘルムを行き来する商船に、王子二人が乗っているとは思いもしないだろう。入国も出国も、いずれもフェリックスの指示で、部下のグレグソンが手配した。第一王子にとって、お忍びでブラッドヘルムを行き来することは容易かったのである。「つーかよ」王子用に用意された客室の中、レイナードは正面に座るフェリックスへ切り出した。「マジで兄貴は何がしたいんだ?」弟の顔には当惑の色が浮かんでいた。兄はふっと頬を緩めて、穏やかに微笑む。「ディリアス様とお話したことがすべてだよ?」「どうせ俺に説明してもわからねーってことか」ふんっと弟は腕を組んで顔を背けた。「物事にはタイミングというものがあるからね」とフェリックス。
「驚かせてしまったようだね」フェリックス王子は、そのままゆっくりと階段を降りてくると、リザレリスを丁重におろした。「ケガはないかい?」「あ、ありがと」さすがのお転婆プリンセスも、しおらしく素直に感謝する。「これはフェリックス王子に一本取られたな。エミル」遅れてディリアスが彼らのもとへ歩いてきた。はたとしたエミルは、即座にフェリックスへ向けて跪く。「た、大変申し訳ございませんでした」「いやいや、悪いのは僕だから。君の動きがあまりに素晴らしかったからね」「い、いえ」頭を垂れたままのエミル。「フェリックス王子は有数の魔導師でもあるんだ」ディリアスが言った。それからディリアスは、侍女姿のリザレリスに視線を移すと、どうしたもんかと考える。フェリックス王子は、彼女が王女だと気づいているのだろうか?気づいていないのなら、このままやり過ごすこともできるが......。そこへディリアスの方針を固める出来事が起
ドリーブは疑問を浮かべ、エミルの耳元へ口を寄せる。「ど、どういうことなんだ?」「これにはちょっとした経緯がありまして......とにかく、王女殿下だということはバレていないようです」エミルの返答に、ドリーブは希望を取り戻し、顔色も取り戻した。「そ、そうか。レイナード王子は、ただの侍女だと思っているということだな」「はい。それはそれでまた別の問題がありますが」「確かに......」 一国の王子が他国の侍女に指を突きつけられているなど、ありえないことだ。ドリーブはひやひやしながら王子と侍女を見守る。「ったく、ここじゃ侍女の教育もままなっていねーのか?」「そんなことより、指輪を渡せよ!」「なーんでこの俺がお前に渡さなきゃならねーんだ。買ったのは俺だ」「割り込んだのおまえだ!」「メンドクセー女だな」「あんだ
「では、私たちも参りましょう」エミルがそう言って、ドリーブを先頭に三人が部屋を出ようとした時だった。「おっと、これはドリーブ侯」ちょうど廊下から応接室へ入って来ようとした者とかち合った。思わずドリーブはびくっとしたが、王子ではなかった。執事風の年配男性だ。「な、なんだ。グレグソン卿、貴兄か」「失礼しました。部屋には誰もいらっしゃらないと思っておりましたので」グレグソンという名の年配男性は、ドリーブに会釈してから、後ろのふたりへ視線をやる。エミルはグレグソンの顔を見るなり頭の中の記憶をたどる。会ったことがあるような気がしたからだ。「あっ」エミルは思い出した。グレグソンは、雑貨屋にあの兄弟を迎えに来た男だ。「どうした?」リザレリスがのん気にエミルへ声をかける。「知り合いなのか?」「リザさま。こちらの方は...」とエミルが伝えようとしたが、一歩遅かった。「ったく、兄貴のヤツ。わざわざ部屋まで行って待たされてまで王女様の顔見てどうすんだっての。さすがに付き合いきれねえ」